仮想と現実の真ん中あたり

主に舞台探訪とか聖地巡礼と呼ばれる記録をつづるブログ

「シムーン」最終話について(再録)

■再録リクエストありがとうございました。
 AS Days(アズ・デイズ) さん
シムーン」最終話感想についてのリクエストありがとうございました。なにぶん駄文なもので、フェードアウトさせておりました。
…えっ!? あ、あの…、ブログのプロフィールを読んでいるうちに背中に滝のような汗が流れて来たのですが、もしや貴女はアズラッタ様では…?
そ、それでは(どもっている)恐縮ですが、「シムーン」についてのとりとめない感想を再録させていただきます。
管理人の駄文のお口直しには、AS様のサイトで拝見した、↓のサイトの方々の感想、および文中の高速ゾートロープ様のサイトをぜひご覧になってみて下さい。
 シムーン感想昨日と今日 様)
 アニメ解題『シムーン』秋山完ホームページ 様)


では、改めて、「シムーン」という希有の作品に出会えた事に感謝しつつ…。


■「シムーン」最終話について(旧日記からの再録&若干修正)
シムーン」という作品のラストを語るにあたって、コンセプトから入るのは、美人を誉めるのに骨格の話から入るようで興ざめという気がしているのだけど、いろいろとシムーンの感想を見て回っても誰もこの点に言及していないので、仕方なく自分で書く次第。
より「シムーン」にふさわしい、美しい感想を読みたいのであれば、↓こちらのブログをお勧めします。
 シムーン第26話「彼女達の肖像」 (高速ゾートロープ 様)


0.“少女”の時代
1989年に刊行された大塚英志『少女民俗学-世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』という本がある。
シムーン」は、この本と時代認識を同じくする、あるいは直接この本の影響を受けている、という所から話を始める。
「少女民俗学」で言及されている“少女”の起源によると、中世には「少女」という存在は無く、未発達な「子供」か出産と家事が役割の「大人の女性」しか存在しなかった。近代の男性社会が商品としての価値を高めるために女性を隔離することにより“少女”という存在が生まれた、とする。
そして、日本社会は、「カワイイ」文化に代表されるように、少女化している、とする。
本書は実家の段ボール箱の中なのでw、「シムーン」の作品との類似性の傍証を拾い上げるために、ネットからキーワードを拾い上げてみる。
参考サイト:
 大塚英志『少女民俗学』 (死に忘れましたわ様)
 大塚英志『少女民俗学』 (ほら貝様)
以下、

「少女民俗学」のキーワード

→「シムーン」の作品世界
として列挙する。

誰もが少女である時代

シムーン世界では、誰もが女性として生まれる。

「<制服>が<少女>期という年齢と結びついている」

→セーラー服に酷似しているシビュラの巫女服。最終話でアーエルとネヴィリルが着ているのも巫女服。

「少女まんがの学園もの」―外部から遮断、成長を拒否―無縁の場

→外部から遮断され、戦争により泉に行かなくて良くなった巫女(シヴュラ)たち。

「<少年>とは<少女>の理想型である。「産む性」を拒否した第三の性である<少女>はもともとモノセックスな存在」

シムーン世界では、“泉”に行くまでは子供を産めない。いわば“少女”という第三の性のまま。

「<少女性>とは、現実から遠く離れた少女の聖域に存在する虚構の風景」

→巫女(シヴュラ)の世界。あるいは、最後にアーエルとネヴィリルが目指した「永遠の世界」。

<朝シャン>-ケガレをきらう都市の「巫女」たち
「閉じられた聖なる空間に未婚の少女が籠ることではじめて神との交信が可能になる、という原理は神道や民俗行事の中に一貫して見てとることができる」
「結界の中に無垢な少女がいるという図式」

シムーン世界での巫女(シヴュラ)そのもの。

<おばあちゃん>-「無垢」な、「かわいい」私たち
「少女の時間」=閉鎖的な清浄性のイメージ
<おばさん>−「女」という性の所有者 <少女><おばあちゃん>−性を所有していない身体
初潮前の幼女・閉経後の老婆-生理がない-無月経-「性」そのものから無縁の存在
「無性志向」(無性の者同士の<性>のない恋愛)
「<少女>とは、産む性の徴を身体に持ちながら、同時に産む性を拒否した存在」
「成熟、という時間の流れにあらがうことでかろうじて成立する聖性」

シムーン世界では、“泉”に行くまでは男でも女でもない、無性の存在。

<卒業>と<死>-手さぐりの「通過儀礼
「少女が異界にはいり、再び日常に回帰してくることで大人へと成長するという昔話の持っている基本構造」
「少女の時間とは、近代社会が「大人」と「子供」のあいだにつくりあげた、一種のコミュニタスである」
「しかし、この少女というコミュニタスは(中略)その始まりと終わりがいたってあいまい(中略)分離の儀礼と統合の儀礼が存在しない」

シムーン世界における、顕在化された通過儀礼としての“泉”。


以上に見てとれるように、「シムーン」の作品世界は、近代(日本)社会の“少女”そのものを形而下に表している。
誰しもが女性として生まれ、無性の“少女”として成長し、17歳に“泉”という通過儀礼により男/女という性を選択する、この世界設定そのものが“少女”の在り方を具現化したものであり、さらに巫女(シヴュラ)として聖域にあって外界からの運命に翻弄されるヒロイン達こそ、少女の中の少女である。
作品中でのオナシアの「シムーンは少女そのもの」という言葉は、文字通りの意味に捉えても決して間違いではない。
そう考えると、「シムーン」でのスタッフのコメント↓

ついに衝撃のクライマックス! 「シムーン」最終回アフレコ
辻谷耕史(音響監督)
「(前略)作品の感想としては、これは『前衛』ですよね。前衛はタイムリーに評価されるものではないと思うので、5年10年経過したときに、キャストの皆さんは自分たちはすごいことをやったんだなと思える、そんな作品になったんじゃないかなと思います。先生というよりも『同志』というか、『共犯者』になってくれたキャストの皆さん、どうもありがとうございました」

の言葉の意味も良く理解出来る。
シムーン」という作品は、見た目は“百合”ブームに大胆に乗った作品と見せつつ(あるいは商業的理由からそちらの面も充実させつつ)、現代社会の“少女”へのメッセージを込めた、前衛作品なのである。


1.「シムーン」のラストの意味するもの
この、前衛劇に託した現代社会の少女へのメッセージという点においては、「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」という先例が存在する。
この二つの作品は、「シムーン」のコンセプトデザインの長濱博史氏が「アドゥレセンス黙示録」のメカニックデザインを担当している事でも相関関係を感じさせる。
参考サイト:
10/38 BSアニメ夜話 少女革命ウテナの回 (フタゴ・フラクタ様)
「アドゥレセンス黙示録」のラストのメッセージは、「少女よ、カッコ良く現実世界を打ち破って世界を変革せよ!」であった。
では、「シムーン」のラストのメッセージとは一体何だったのか?


シムーン」のラストにおいて、コールテンペストのメンバーのうち、“泉”という通過儀礼を通った少女たちのその後は、
 モリナスは家庭に、
 パライエッタとロードレアモンは社会に、
 カイムとアルティは家族の元に、
 フロエとヴューラは男性として野に、
と、それぞれ“日常の世界”へとその身を置く。
そして、“泉”という通過儀礼を通らなかった者は…、
 ユンは、それが身を滅ぼす道と知りながら、オナシアを救い、オナシアの後を継いで少女達を導く道へ。
 ドミヌーラは自らの滅びを予感させながらも、リモネを新たな空へ導く。
 リモネは、そんなドミヌーラにパルとして寄り添って行く。
と、将来の不安を予感させなつつも、それぞれの道を歩んで行く。
と、ここまでで、「いつか消えて無くなる“少女”という存在の限定性」を描いている。


それでは、物語のメインヒロインである、アーエルとネヴィリルは、一体どうなってしまったのか? 翠玉のリ・マージョンの彼方にある、『遠い世界』,『自由になれる場所』とは一体、どこなのか?
答えは、彼女達の行方そのものでなく、むしろ元コールテンペストのメンバー達のモノローグの中にあるように思う。
彼女(彼)らは言う、アーエルとネヴィリルを『遠い世界』へ送り出したのは、時間や現実からの逃避でなく、少女期という時間に自分達が確かにいた、その証なのだと。
このラストにおいて、アーエルとネヴィリルは物語中での実体を失っている。残された人々にとっての彼女達は、輝いた少女時代の思い出,情熱の象徴となっている。
ラストで映し出されるアルクスプリーマの壁に刻まれた、ありし日のコールテンペストの巫女(シヴュラ)達の姿、それこそが、今のアーエルとネヴィリルを象徴するものなのだ。
「いつまでも“少女”ではいられない。いつまでも“少女”でいる事は、大きな犠牲を伴う。しかし、“少女”でなくなったとしても、永遠に残る神聖なものがある。それは、“少女”期に刻んだ時間,輝きそのもの。それは、翠玉のリ・マージョンの彼方のように遠い世界かもしれないけれども」、と。


「アドゥレセンス黙示録」は、不条理な現実世界からの、二人の少女の逃避行を描いた。二人の行き着いた先は、荒野、すなわち未知の世界として描かれていた。
シムーン」は、二人の少女の行き先をあえて描かず、その二人(と過ごした時間)を輝く思い出として生きる人々を描いた。
その、より現実世界の少女に近づいた視点が、あの「シムーン」のラストの切なさを生み出しているのだ、と思う。


■「シムーン」昨日の補足(旧日記からの再録)
実は、昨日の「シムーン」の考察には、1点大穴がある。
「『シムーン』は現代の少女に向けたメッセージ」と書いたけれども、ゴールデンタイムに放映された「ウテナ」ならまだしも、深夜枠のアニメを作るにあたって本当に少女を対象とした話を作るだろうか?、という点。
では、「シムーン」が“少女”へのメッセージだとするならば、その“少女”とは一体誰なのか? 実は、未だ確信が持てずにいる。